仏の顔も三度

わたしは普段は温厚で本当に怒らない人です。

イライラすることも年に1、2回あればいいほうかもしれません。

 

我慢しているわけではなくて、

「怒り」という手段を使って、相手に伝えないだけなんですね。

 

怒りは二次感情です。

怒りの元になる「不安」とか「悲しい」という一次感情を

素直にそのまま相手に伝えるので怒る必要がないのです。

 

でも、基本温厚なわたしでも限界値というものが当然あります。

仏の顔も三度までだな…と「諦める」ことは多々あります。

 

相手を「許す」というのはとても良いことですが、それを何度も何度も繰り返していると相手にとって「甘やかし」になる場合もあります。

 

相手の非人道的な行為(迷惑行為やハラスメントなど)を許しているというのは、愛ある行動ではありません。相手が非人道的な態度を習慣づけていくのを見過ごすということは、相手にとっても自分にとっても、広い目でみれば社会にとっても良くないことです。

 

相手のことを考えているからこそ「他者をこんな風に扱う貴方をそのままにはしておけない」と相手にとって建設的な意見を伝えることが愛ある行動です。

でも、その愛ある行動が相手に伝わらないこともあるでしょう。

 

伝わらない場合は「諦める」ことも自分にとっては必要なことです。

 

仏の顔も三度

「仏の顔も三度」

このことわざは「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」を略した言葉だそうです。

 

悟った仏様でも、三度も顔をなでたら怒りますよ、ということですから
三度までではなく、三度めは怒りますよということです。

だから本来は「仏の顔も三度」です。


どんなに温厚な人でも、度重なるひどい仕打ちや、

何度も無礼なことをされると、怒るというたとえの言葉です。


この言葉の由来となる話も書きたいと思います。

 

お釈迦様が生まれた釈迦国の隣に、コーサラ国という強大な国がありました。

 

コーサラ王は釈迦国から妃を迎えたいと考え使者を送りましたが、釈迦国の王や家臣は、もし断れば武力にものいわせて攻めてくるであろう国に王女を嫁がせる事を快く思わず、ある富豪が身分の低い女性に生ませた娘を、身分を偽ってコーサラ国に嫁がせました。

 

やがてコーサラ国王と娘の間に王子が生まれました。
身分制度の激しいインドにおいて、「卑しい身分の娘が生んだ子供」という事で王子は差別され、そこではじめて、自分の出生の秘密を知ることになりました。

 

そんな侮辱を受けた王子は、いつか自分が国王になった時、釈迦国を滅ぼす事を誓い、王位を継いだ後、軍を率いて兵を出兵させました。

 

これを聞いたお釈迦様は、釈迦国へと続く一本道にある枯れ木の下に座禅し、兵が来るのを待ちます。

 

その前を通りかかった王は「お釈迦様、他に繁った木があるのに、なぜ枯れた木の下にお座りですか?」と尋ね、暗にその場から去られる事を伝えました。


しかしお釈迦様は、「王よ、枯れ木でも親族の木陰は涼しいものである」と答え、自分が釈迦国の生まれである事を暗に伝えます。


それを聞いた王は、お釈迦様がその国の生まれである事を察し、昔からの言い伝えに「遠征の時に僧に会ったなら兵を撤退させよ」というものがあり、王はそれに従ってその場から兵を引き上げました。


しかし、国に戻って怒りを抑えられなくなった王は、再び兵を出しますが、お釈迦様はまた枯れ木の下で座禅をして待ち、同じやり取りで兵を退けます。

 

さらに三度目の出兵にも同じことが繰り返されました。


ついに四度目は、お釈迦様も釈迦国にある因縁<因果応報>を悟り、兵を阻止する事をしなかった為、釈迦国はコーサラ王によって滅ぼされてしまいました。


しかし、戦の7日後、恨みを晴らしたコーサラ王も、川で遊行をしていた際に暴風雨に襲われ、兵達とともに命を落とし、宮殿も雷の為に焼かれてしまいました。

 

 

由来となる話をみると「三度まで」となるはずなんですが、それは置いといて、

この話のポイントは二つあると思います。

 

ポイント①
お釈迦様が「三度まで」コーサラ王の軍勢を退けている点です。
そして、四度目には怒ったわけではなく、「何もしない」という選択を行っています。

慈悲をかけるのを諦めた…ということもあると思いますし、同じことを繰り返しても解決しないことに気づき、因果応報を受け止めて「諦観=明らかに観る」で結末をむかえたこと。


ポイント②
武力(暴力)にものを言わせて妃を迎えようと考えた国。

そのために釈迦国にウソをつかれました。ウソをつき人を差別したからこそ、釈迦国には滅ぼされる縁が生まれましたが、怨みを怨みによって返した事で、王は自分の命を落としてしまう縁に繋がった。

全ては縁によって起こったことです。

 

お釈迦様は諦観の境地で「何もしない」を選択したことによって、

全てを終わらせたのではないかとわたしは解釈しました。

皆さんはこのストーリーをどのように感じたでしょうか?

  

何度も何度も、人を怒らせるような行為をしたり、嫌がるような行為をくりかえしていると、それ相応の出来事が自分に返ってくるということでしょう。

 

そして、普段温厚な人間を怒らせると本当に怖いから、怒らせないほうがいいですよ。そういう人間は怒ると本当に怖いですから。

 

わたしも怖いですよ、きっと(笑)

 

 

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