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人生は自分でデザインする 【 きらきらひかる 】

-人生は自分でデザインする-     アドラー流で生きる 安西光のブログ

3.11で思うこと。

こんにちは。ひかるです。


3.11

いつもこの日は父の事を書いています。

わたしの父は震災の映像をみてPTSDになり、そのまま弱って孤独死、変死体で見つかりました。被災者ではないけれど、二次被害で亡くなりました。情報(映像)という津波にのまれてしまったのです。


この日はいつもSNS関連(FacebookTwitterなど)を見ると胸くそ悪くなっていました。だからこの日はSNS関連は余計なものは見ないようにしています。


「この日を忘れない」
わたしはこの言葉が好きではありません。


そう呟いている人のいったいどれだけの人が本気でそう思っているのだろう。


普段はすっかり忘れているくせに、ニュースをみて思い出して、お決まりのように「この日を忘れない」と呟く。行動は何も起こしてはいない。



この時期だけわいて出てくる、「ただ言っているだけ」の人にとても不快感を感じるのです。




本気でそう思っている人は「常に忘れていない」し、忘れることなんてできない。


わたしはこの日になると父の死を通して学んだことを振り返ったり、「死」について眠れないほど考える。今日もほぼ眠れなかった。


「この日を忘れない」と呟いている人たちは本気で自分について考えているのだろうか。



文字だけだったら何とでも言えます。
行動を起こしている人はとても少なく感じていた。


わたしには何もできないが、わたしはそれを受け入れました。
わたしには何もできないけれども、自分のことだけでもちゃんとしようと決めた。そして、父のことを、身の上話であったことの事実だけを発信し、毎年自分がどのように感じているのかを淡々と書き綴るだけにしたのです。


だから「この日を忘れない」などの投稿は一切したことがない。

黙祷の時に、わざわざ「黙祷」と呟くこともない。



普段から目に見えるような行動を行っているわけでもないし、本当に被災地や被災者のために活動している人たちに大変失礼だと思うのです。そういった人たちは「この日」以外でもちゃんと活動をしています。


わたしはこの日を忘れることはできないので、この経験を糧にして自分ができる範囲で自分と自分の周りにいる人たちを大切にしようと決めています。規模は小さいけれども行動は起こしているつもりだし、信念を持っています。




以下文章は昨年Facebookで投稿した記事です。

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私の父は3.11の被災者ではありませんが二次被害で亡くなったと推測されます。(変死体で見つかり、原因は不明。警察の調べで状況判断から推測)命日は一ヶ月後先なのですが…。


最近よく思うのは「震災で身内を失ってとても辛いだろう」ということを押しつけられることの違和感。

もちろん今でも忘れられずに悲しみにくれている人はたくさんいると思うし、そちらのほうが多いかもしれない。


でも私自身は悲しみよりもむしろ「ありがとう」しか湧いてこない。

決して嬉しいわけでもないし、思い出して涙することもあるけど、それは悲しみの涙ではなく約20年生き別れだった父に対して何もしてあげれなかった後悔の涙です。


震災があったからこそ、多くの命が失われたからこそ、命があることや衣食住があることの素晴らしさに気づけた人もいると思う。問題点や改善点も見つけられたと思う。


きっかけを与えてくれた震災に悲しい気持ちを持ち続けるよりは「ありがとう。良い経験させていただきました」と思いたい。


大事なのは現状をどう生きるか、なのではないかなと思っています。

皆さん優しいから配慮したり、心からお悔やみを言ってくださることは重々承知です。でもその言葉に違和感を感じる人もいるのだという事実も知ってほしいのです。


当事者ではない者たちの慰めの言葉はとても残酷な気がしてなりません。

私のように乗り越えた人は「辛くなければいけないのか?」と違和感を感じ、乗り越えられない人たちも「被災していない貴方にはわからない、じゃあ何してくれますか?」と違和感を感じてしまう気がするのです。


3.11は各自が「今を生きる」ことに焦点をあてて欲しいなと私は思います。


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そして、以下の記事は昨年のニュース記事ですが


「生きていくことが家族への恩返し」19歳の遺族代表



仮設暮らしの祖父、秀幸さん(64)は、ふびんに思って声をかけた時の答えが忘れられない。「自分は不幸じゃない」。彩加さんは泣いて抗議したという。明るい性格の孫が理不尽な境遇を懸命に生きているように、秀幸さんには見えた。



わたしはこの少女の気持ちに深く共感しました。



誰かが可哀想とおもうたびに 可哀想な人が増えていく。

誰かがこの人は不幸だとおもうたびに 誰かが不幸者にさせられていく。




わたしは自分を含めて他人に対しても、可哀想だとか不幸だとか思ったことがありません。


これは震災以外でもそうだけど、誰かが亡くなったときや何かを失ったときの話をすると「辛い話を聞いてしまってごめん」「失礼なことを聞いてしまった」と言う人がいる。



本当に辛い話なのだろうか。失礼なことなのだろうか。

他人が辛いと決めつけているだけではないだろうか。



話をしている本人はそんなことは思っていない。

本当に傷つき前に進めない状態になっていたのなら「話せない」と思う。



わたしはこういう話のときに「ごめんね、すみません」と謝罪をしてくる人間がとても苦手です。


その言葉には少なからず「可哀想な人」という感情が含まれているようでならない。だから、聞いてすみませんでした、と言うのではないかと思う。



その言葉を聞くと「あぁ、わたしは可哀想な人になってしまったのだな」と思う時がある。



わたしは可哀想な人を増やしたくもないし、不幸者を増やしたくない。



誰にでも失うことはある。

人生の中での経験の一つとしてしか見ないようにしている。






わたしは今日も笑っている。







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