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人生は自分でデザインする 【 きらきらひかる 】

-人生は自分でデザインする-     アドラー流で生きる 安西光のブログ

新しい ” 光 ” を作り上げよう。

こんにちは。ひかるです(^^)

 

最近わたしは自分の方向性に迷っていた。と言ってもさほど人生において重要な事柄ではないのでボーッとなんとなく考えていただけですが(笑)

 

アドラーを本格的に学び始めてから「自然にアドレリアンなのに学ぶ必要あるの?」と立て続けに複数人から言われるようになったからだ。

アドラーを前面に出すと「ひかる」らしさが無くなる。そのままの「自然な状態のアドレリアンひかる」でいいじゃないか、と。

 

悩んだことがない人間で、自分大好きで、毎日楽しく暮らせているので正直わたしにとって必要性は感じない。ただ、わたしが小さい頃から自然に実行していたことはわたしにとっては全て”当たり前”

 

悩まないのが当たり前。

劣等感を持たないのが当たり前。

自分大好きなのが当たり前。

 

そこには揺らぎはなく、なぜ揺らいでしまうのかがイマイチ理解できないほどだ。

 

その”当たり前”を他者に伝えるのは意外と難しい。なぜなら、相手にとっては当たり前ではないからだ。

 

第一に自分を知ることが目的で学び始めたが、知識を得ることによって他者へ伝えやすくなることへの期待、アドラーのことをブログで書いていくなら知識を得てから書くべきだろうと思ったこと等、それらを考えた時に「知識を得ることも必要だ」とわたしは判断した。

 

アドラーを学べば確かに周りに伝えやすくなるだろう。でも、アドラーを知らなかった「ひかる」らしさはなくなっていく。それは事実だと思った。

 

 

先日、こういったことをフェイスブックで投稿した。

 

最近ブログの記事がイマイチのように感じる。自分自身楽しくは書いているし、アクセス数も少しずつ増えてるけれど、読んでいて本当に楽しいのだろうか。

知識が増えたせいで自由に書けなくなった気がする。一年前のブログを読むと今よりも発想が自由で自分の経験だけを元に書いていた。

今は自分の経験と勉強して得た知識(もちろん腹に落ちたもの)を元に記事を書いていて、一年前のはっちゃけ感というのが感じられない。知識を得ると間違った知識は書けないと慎重になる。

知っていくというのは自由になることでもあるし、不自由でもあると感じる。
喜ばしいことでもあるし、とても怖いことだ。

知識を得ると物事の見方が変わっていくことを今ものすごく体感してる。

これは男女の性質を知った時もそうだったなぁ。

知ってしまった以上元には戻れないので今のわたしで出来ることをするしかないのだけれどね。

 

 

最近のブログは少々自分らしさがなくなっているような?つまらなく感じるような気がしている。それはアドラーを学んで知識がついてきて、発言が自由ではなくなっているからだ。

 

まだ中途半端な知識のわたしがブログを通じて「間違ったアドラーを伝えるのは控えたい」と思っていることもあるし、アドラーについて書いてあるブログ=アドラーはそういう考え方なのだ、と雑に考える人も世の中にはいるものだから。

 

 それらのことを考えながら「アドラーを学びつつ、ひかる色をどう強く残していくか」ずっと考えていた。

 

 

講座第一日目が終わった後の懇親会で思い切って先生に聞いてみた。

 

わたしがアドラーを学ぶ意味や(目的があってきているのに先生に学ぶ意味を聴くのもおかしな話だが)上記の話「アドラーが入るとアドラーのひかるになってしまうと言われる」ことも相談した。

 

先生は言いました。

「知識を得た新しいあんざいひかるを確立しなさい。ブラシュアップしたあんざいひかるになりなさい。今のあんざいひかるのままでは、周りが依存してしまいます」

 

 

周りが依存する?

なぜ周りが依存するのかそのことについては聞けなかったが、この言葉は自分なりに考えなきゃいけない問題なのかもしれない。


わたしのこれからやっていくことは知識を得た新しいあんざいひかるになることかもしれない。だって、もう知らないわたしには戻れないのだから。

 

今のわたしをどうより良くしていくか。

周りに良い影響を与えていけるか。

 今わたしが持っているものをどう生かすか。

 

 

建設的にこれからのことを考えなければいけない。

わたしは新しい ” 光 "を作り上げよう。

 

 

 

 
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