安西光(ぴかりん)のブログ【きらきらひかる】

-自律の光で心を照らす-安西光のブログ

救いたいのか。救われたいのか。

こんばんは。ひかるです(^ ^)



「この人は相手を救いたいのだろうか。それとも自分が救われたいのだろうか。」と思うことがよくあります。


自分の出来る範囲で手助けしあうことは素晴らしい。

例えば道を聞かれたら立ち止まって丁寧に対応してあげたり、優先席を譲ってあげたり(これらは本当は普通にやらなければいけないことではありますが)自分に余裕のある人間は一貫して誰にでも優しく対応できる。


でも「助けたい」という言葉や感情にはある別の側面も持ち合わせている。


助けてあげることで自分は人の役に立っているのだと、自分は善い人なのだと安心し満足を得たい人たち。
本質的には相手を心配しているわけでも、救いたいわけでもなく、自分が救われたいだけの自己中心的な行動でしかない。


例えば「彼には私しかいない!私がなんとかしなければ彼がダメになってしまう!」と自分の承認欲求のために、彼のためにならないことをやり続けてしまう女性とか、

災害や記憶に残る大きな事件で「○○を忘れない」とか言いつつ普段は忘れっぱなしで活動も何もせず、その日だけ叫びまくる人とか。


自分の生活は乱れまくってうまくいっていないのに大きなコミュニティの問題に物申す人とか。


例を出せばキリがないのですが。



大抵は自分のできる範囲を超えてしまっているため、言葉と行動が伴っていないことが多い。言葉では何とでも言えるが実際行動に起こしているかといえば「???」そういう人がたくさんいる。



私はできないことを言葉にするという行為について、とてもうすっぺらさを感じてしまうのです。
そういった発言をするのであれば、ちゃんと行動も起こさないといけないと思う。



誰かを助けたいとか、人を思いやる言葉を声高々に言っている人は一見思いやりに溢れ、優しい人に見えるだろう。でも行動が伴っていなければ完全なる自己満足のための言葉だと思う。



私は言動が一致していて、一貫した人間が本当に強くて優しくて、思いやりのある人間だと思っています。


私は自分が地に足をつけて生きていく努力をするので精一杯です。「救えないものは救えないし、助けられないものは助けられない。できないことはできない」だから言葉にしない。



自分のできることを懸命にやっていけばいいんです。

自分のことをちゃんとやっていれば周りの人間は幸せになっていくと思う。それをみんなが一人一人やればいいんじゃないかな。


それに相手を思いやるって優しい言葉をかけることでも、助けることでも、救うことでもないと思うんですよ。
その場限りの優しい言葉はなんて残酷なんだろうと思います。

 



もちろん純粋に救いたい、助けたいと思っている人もいます。
でも、その違いなんて賢い人が見たらすぐにわかってしまうよ。


本当に救いたければ行動にうつす。
自分が救われたい人は言葉だけ投げかけて行動にはうつさない。


人の隠れている感情は言葉ではなく、全て行動にでるからわかりやすい。


それに「助けてあげたい、かわいそう」なんて随分と上から目線な話だと思う。


頼まれてもいないのに救うという行為は相手がどのような考えを持っているかもわからないのにこちらの自己満足を押し付けているようなものだと私は思う。



「かわいそうだ」と思うたびにかわいそうな人を作り上げ、「助けたい」と思うたびに人間の強さを無視し、まるで非力な人間のように扱っているのかもしれない。


そして、最終的には自分で自分を救わなければ何も変わらないのだ。これは誰にも変えられないこの世の真理だと思う。


そんなことわかっているはずなのに「助けたい」と思うのは何故だろう。

人それぞれ苦難があるのに「かわいそうな人」と思ってしまうのは何故だろう。

そう思うことで優位に立ちたいのではないだろうか。

自分よりかわいそうな人がいると安心したいのではないだろうか。

自分の埋められないものを他人を使って埋めようとしていないだろうか。


そんな人たちを見て思う。


「他人の心配はせず、まずは自分を救ってあげてください」