「縁(えん)」は神さまが与えてくれるものですが、紡いでいくのは自分である。

縁(えん)は神さまが与えてくれるものですが、紡いでいくのは自分である

最近、強くそう思っています。
個人的には「見えない力」の存在は認めていて、私自身不思議な力を感じとる能力が幼少の頃よりあったのですんなりと受け入れられます。「そういうこともあるのだろうな〜」と思っていますし、見えない力はあると信じています。

縁について。
きっかけは神さまが与えてくれたものだけれど、縁を紡いでいくのは私たちの役目だと思うのです。

もちろんお互いの相性もありますし、どうしても仲良く出来ない人っているとは思います。でも合わない人って本当にいるのかな!?

私は生理的に無理って人生で一度も思ったことがありませんからわからないのですが、最初から合わないというよりは嫌なことをされた、不快な目にあった等で「合わなくなってしまった」がほとんどではないでしょうか。

私が今回言いたいのは、たいして努力もせずに簡単に「縁がなかった」という言葉で片付けてしまう人がいるよなぁってことです。


きっかけを与えたにも関わらず、紡ぐ努力を怠っていたら、神さまは「その程度であればその縁はなかったことにしましょう」と思い、結果として縁が切れちゃうのかな。と、ふとそう思いました。


身近な具体例で言うのであれば、

「一緒に飲みたいのに呼んでくれないと言っているばかり」
「連絡したいけれど待っている。会いたいけれど会いに行かない」

とかとか、、、
色々あるんですけれど、要するに、「なんでも相手からしてもらいたい」って思っている人です。

「自分から何かをするというのが怖くてできない人」
「与えてほしいというばかりで自分からは与えない人」


仲良くしたいなら自分から食事や飲みに誘ったり、会いに行けばいいじゃないですか。連絡すればいいじゃないですか。


それなのに自分は必要とされているという承認欲求が前面に出てきてしまい、「相手から連絡してもらいたい」とか「誘って断られたら嫌だから自分から言えない」とか、人の感情には色々なものがあるのですけれど、結局それらの行為って相手に対して紡ぐ努力を何もしていないと思うんですよね。


何かを得るには自分の何かを差し出さないとダメだと思うのです。


それは相手に会いに行くための時間やお金(コスト=投資)をかけることであったり、断られてもいいから勇気を出してみる行動であったり、そういうところから「この人は私を好いてくれているな」「仲良くしたいと思ってくれているな」と思って相手も歩み寄れるのかなと思います。行動から本気度がわかるんですね。


自分が「この縁をどのようにしていきたいのか」を相手に気づかせることって大切だと思うのです。


それをせずに「縁がなかっただけ」と片付け、紡ぐことすらも神さま(他人)に頼りきり。
結局は自分が何もしなかったのだと気づかなければ、この先もずっと縁は紡がれない気がします。


そして、自分が縁を紡ぐに値しないと思われる場合もあるわけでして、、、


そう思われないように自分も勉強して成長していかなければいけないな〜と思うのでした。


今週末はずっと会いたかった人に会いにいきます♪
まず自分から行かなければ、何も始まりません!


皆さんも連絡したい人に連絡をとってみてはいかがでしょうか〜