人は傷つけあって生きている

自分や大切な人を傷つけられて怒らない人間はいない。
それは怒ってもいいと思う。

でも傷つけられた内容を特定の人物とわかるように(本人がわかるように)ぶちまけてしまったら、ぶちまけた本人も相手を傷つけているのではないのだろうか。

その時のやりとりや発言を書けば相手は「私のことだ」とわかるし、不特定多数が閲覧するネット上で自分のことが書かれ、その記事に何も知らない人たちが同調するようなコメントをいれたとする。
書かれた人がその記事を読んだら傷つくだろうと簡単に想像できるはずだ。

傷つけた人が悪気がなかった場合はどうだろうか。
悪気がないことがわかっているのにネット上でぶちまける行為は良いものだろうか。

私には相手を追い込んでいるようにしか見えない。

素直に気持ちを書いただけかもしれないし、素直に感じたことを書くということは基本素敵なことだと思っている。でも、素直に書いてはいけない時だってあると思う。

ネット上で素直に書いただけ(悪気はなかった行為)で自分も相手を傷つけ同じことをしていると気がつけるかどうか。(その時点では気づけてないだろうから書くのだと思うが)

傷つけられたと思う前に自分は同じことをしていないか、やはり考えることは必要だと思う。
どっちが先という問題ではないと思う。

人は傷つけあって生きている。
それは同じ人間なんていないから当たり前のこと。
もちろん私だって傷つけているつもりはないけれど、何気ない一言で誰かを傷つけていると思う。

その部分の認識がしっかりとできている人は「傷ついたけど私も誰かを傷つけているだろうから水に流そう」という考えが態度で出ると思う。だから私はあからさまに悪意があるものやストレスがかかっているもの以外は極力受け流すようにしているし、やりあうときは一対一じゃなければいけないと思う。

怒りがわく、批判をいうことは「違うこと」にストレスを感じているからだと思う。そこには自分を押し通す心が見え隠れしているような気がしてならない。

生きていれば傷つけられることはわかりきっているのだから「自分を守ること」=スルースキル能力を自分で身につけていくことも必要なのではないのだろうか。

相手にばかり傷つくことするなと求めるだけでなく、自分も傷つかないように努力する。悪気がないものくらいは水に流してしまおうという努力も必要なのではないだろうか。

歩み寄る、共存するとはそういうことではないだろうか。


言葉と態度が一致していなくては何も届かない。どんなに素敵な言葉を書こうとも、とても薄っぺらなものになってしまうと思う。


自分も気をつけたいと思う。